萌え職人としての赤松健

http://moura.jp/clickjapan/moejpn/022/index.html
私が最初に赤松健の名を知ったのは、ネット上での記述だった。
(「ラブひな」の連載が始まった頃だったと思う)
そこでは「子供だまし」というニュアンスで徹底的に嘲笑されていて、
逆にどんなものなのか興味を持った。


実際読んでみると、確かにこっぱずかしい内容。
可愛い女の子に囲まれたハーレム、毎回挿入されるサービスカット(パンチラ等)、
徹底的に「お約束」の連続。
中学生男子の頭の中の妄想をそのまま漫画にしたようなもので、
これでは馬鹿にされても仕方がない。
マーケティング主導」「読者に媚びまくり」など、
たとえば「ガロ原理主義者」のような人には絶対受け入れられない漫画だろう。


だが何度も見ていると、その律儀なまでの読者サービス部分にむしろ、
頑固一徹、徹底した萌え職人」
としての姿勢が見えてくる。
そうなると逆に、
「今度はどうやってサービスカット入れるんだ?」
「今回はどんな風で読者に媚びるんだ?」
と、「ネタ」として面白くなってきたのである。


この方面で有名なのは、なんといっても久米田康治だろう。
同時期にサンデーで連載していた「勝手に改蔵」で、
ラブひな」を何度も何度もネタにしてパロディを描いていた。
「久米田康治VS赤松健」まとめ
これだけ何度も取り上げる事自体、
久米田氏が赤松作品にネタとしての面白みを見い出している証拠だ。
そして赤松健は、そうやってネタにされることを怒るどころか、喜んでいたのである。


赤松健は、自分の作品がある層に馬鹿にされることは十分に判っている。
判った上で、あえて自分の「中学生男子の妄想」の様な作品を求める読者に向かって、
描いているのである。
そこにあるのは「需要と供給」の関係だ。「自己主張」ではない。
その点が、漫画を「自己表現」と考える人々には一番許せない部分だろう。


だが、その「厚顔無恥な萌え職人」の徹底振りに、私はむしろ潔さを感じる。
赤松健は、萌え職人のスキルアップを怠らない。常に読者の反応をフィードバックさせ、
最新の絵のトレンドに目配りして、自作品に取り入れる。
彼には作家としての「自我」はない。クリエイターというより編集者的要素が強く、
あえていうなら、客(読者)に喜んでもらう事こそが彼の作家的欲求である。
そのためならパクリと言われようが、何でも取り入れる。
それこそ久米田康治ではないが「そこまでやられたら、もう何も言えません」である。


そして一番重要なことは、赤松健自体が「赤松健的世界」を好きだ、と言うことだ。
彼は「中学生男子的妄想ワールド」を、別に嫌々描いているのではなく、
好きで描いている。赤松健作品第一の読者は、実は赤松健自身なのだ。
「中学生男子的妄想」好きな「赤松健」という読者を納得させるに足るものを描くため、
「萌え職人」赤松健は日々努力している、と言い方も出来る。


ここで私は、山下達郎の発言を思い出す。
「僕の音楽の様なスタイルっていうのは結局ロックの中で一番弱い立場にいるから。
 僕はイージーな商業主義って嫌いなんですよ。
 でも、スタイルに関してはそういう商業主義的なものが好きなんです。
 どうして人はそれを判ってくれないんだろうというさ(笑)。そのジレンマでしょうね」
            (渋谷陽一「ロックは語れない」新潮文庫 P61)


赤松健が商業主義を嫌いなのかどうかは知らないが、
少なくとも、漫画の中で弱い立場であろう「中学生男子的妄想」作品を書き続けている事は確かだ。
たとえ商業的に成功しても、馬鹿にされること必定の。


そう考えると、彼は他者の為に描いている様でいて、
実は自分の為に描いているのかも知れない。